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​長編 エナメルの夜を泳ぐ魚達

#-04 最悪な目覚め
目が覚めたとき、ハルは自分が今どこにいるのか分からなかった。頭は心臓が鼓動を打つたびに鈍く痛み、目の奥は小さな虫が肌の上を動き回っているようなチクチクとした感触がして、ぼやけて見えるベッドルームの白い壁に掛けてあるクリムトの絵ユディトの金色が魚の鱗に見えた。ハルはベッドの上で体を起こし、白い壁にもたれてフローリングの床の上に置かれているラバーライトを見つめた。
「私は昨日、何をしていたんだろう?」 
昨日のことを思い出そうとするのだけど、記憶をうまく掴むことができない。するすると、指の間を零れ落ちて頭痛だけが残ってしまう。オレンジ色のライトが反射している薄いブルーの液体の中を白いラバーが分離しながら無機質な形を作り、ゆっくりと上下に浮き沈みしている。
「最悪な目覚め」ハルが小さな声で呟いた。
何度も浮き沈みを繰り返しながら分離しているラバーの形が牛の舌のようにだらりと伸びて、そこから生まれた小さなラバーが人の目に見えてその目が自分をじっと見つめているような気がして、ハルはラバーライトのスイッチを消した。暗くなったブルーの液体の中でその目がゆっくりと沈んでいく。そのとき、一瞬ラバーの目が瞬きしたように見えた。そしてハルはタクシー運転手のバックミラーに映る黒い瞳を思い出した。ハルが足を組みかえる度に運転手は表情を変えず瞳だけを動かしていた。
「狂っていたけど、瞳は宝石のように綺麗」ハルはそう呟くと、口の中に酸っぱい液体がこみ上げてくるような感じがした。タクシー運転手が触れた爪の感触がまだ残っているような気がして、手のひらをシーツに擦りつけた。

 霊南坂で乗ったタクシーの車内は、蒸し暑く、白いワイシャツに黒のスラックス、白い皮のグローブに白いエナメルの革靴を履いた運転手はハルを乗せると同時に、クーラーが故障しているんですよ、と言った。バックミラーに映る運転手の瞳の黒目がオニキスのように深い黒色で、それがとても美しく輝いて、今にも瞳の中から零れ落ちそうなぐらいに飛び出て見えた。まるで3Dの映画を見ているようだなとハルは思った。鼻の奥で甘い香りがしたような気がしてハルは鼻をすすり、アナルに残っているボーカルのペニスの感触を感じて、足を組むのをやめて少し開いて座り直した。運転手の黄ばんだ白目の中の黒い小さな眼球には自分の足が映っていて、カメラのシャッターみたいに黒い点が広がるのが見えた。ハルは座っていた助手席側の後部座席から運転席側へ移った。
「朝方なのに蒸し暑いですね、お客さん」
自分は東北の生まれで、実家は海のすぐ側にあると運転手はウインカーを出しながら話し始めた。そして、東京は海の色が黒くて臭くて汚くて、そんな海を見ているとなんだか寂しくなって、実家に電話してみたら受話器から波の音が聞こえてきて、電話に出た娘は、渋谷のマルキューでなんとかって言うブランドの洋服を買ってきてほしいとせがんで、波の音と娘の声が重なって、泣きたくなったけど我慢したと言った。運転手は、ウインカーを点けずに、途切れることがなく続く車の流れをサイドミラーで少しの間、見つめて舌打ちをすると、かまわず発進させた。白いミニクーパーがクラクションを鳴らしながらタクシーを追い越して行く。ミニの助手席の窓が開いて、金髪の女がタクシーに向かって舌をだしながら中指を立てて唾を吐いた。吐いた唾はタクシーのフロントガラスに当たりゆっくりと筋を引きながら運転手の顔の前を落ちていく。バックミラーに映る運転手は何事もなかったかのように表情を変えずに黒い瞳で前をじっと見つめていた。
「なんだかね、悲しくなってくるんですよ。こう映画でよくあるじゃないですか?思い出がオーバーラップするって言うんですかね?ばぁーんって重なって見えるの。娘の声を聞いた瞬間に、もう、帰りたくなってね。涙がぽろぽろ落ちてくるんですよ。そしたら、娘が言うんですよ。お父さん、私ね、彼氏ができたって、水産高校のサッカー部のキャプテンだよって、そしたら今度は娘が、私の知らない水産高校のキャプテンにバックからやられている映像がオーバーラップするんですよ。私の娘はねとても綺麗な顔立ちなんですよ。ミス桜にも選ばれたことがあってね。あっ、お客さんには負けるかな?」
運転手は、バックミラーをハルの太ももが見えるように傾けると、一瞬、紫色の舌をだして青白い唇を舐めた。ハルが何も言わずに窓に頭をもたれて外を見ていると、運転手はかまわずに話し始めた。
「僕は家族の為に、東京へ出稼ぎに来ているんですよ。田舎で働いていた水産加工場が倒産してね、笹かまぼこって知っていますか?仙台名産の、知らない?美味しいですよ。家の娘がとても好きでね、毎日食べていましたよ。お客さん、本当に知らないのかな?有名なんだけどなぁ」
タクシーの前を走っていた軽トラックがウインカーを点けずに車線変更をすると、運転手は、あぶねぇなと言って舌打ちをした。窓の外を見ているハルの足をバックミラー越しに、運転手は何度も覗き見をしていて、その度に、運転がふらつき、後ろを走っていた白いハイエースにクラクションを鳴らされた。運転手はまた舌打ちをすると、お客さん今何時だか知っていますか?とハルに聞いた。
「朝の五時半ですよ。正確に言うと五時十三分ですけどね」
運転手は右腕にしている、Gショックをハルに向かって見せた。
「この時計ね、娘がプレゼントしてくれたんですよ。なんだっけかな?忘れちゃったけど、外国の映画俳優がしているやつと一緒らしいですよ。でもね、こうして、朝の五時十三分にお客さんを乗せて働いているっていうのに、娘は、水産高校のサッカー部のキャプテンに四つん這いにさせられて、後ろからやられていると思うとね、もうね、嫌になる訳ですよ。あっ、四つん這いって言ったけど、見たわけじゃないですよ。こうやってね、タクシー運転手をしているとね、お客さんを乗せていない時なんて、想像する訳ですよ。だって、すごいでしょ?六本木なんてさ、夜なのにあんなに人が沢山でさ、お姉ちゃんなんか裸と変わらないドレスを着てさ、なんだか、色の黒いのと白いのが、そんな姉ちゃん達と腕なんか組んで、もうおかしな世界なわけですよ。だからいろいろと考える訳ですよ。変な癖ですよね。もう僕の娘がキャプテンのペニスをしゃぶっているのだって想像する訳ですよ。」
ねっとりとした運転手の声が、蒸し暑い車内にこもり、ハルは窓を半分開けて風を入れた。風を顔に受けながら、ハルは朝の匂いがすると思った。ハルが足を組みかえる度に、ルームミラーに映る運転手の黒い目がクリーム色の中で大きく広がる。六本木通りの、薬と墨文字で大きく書かれた看板の前で、カーキー色のタンクトップを着て黒のスラックスを穿いた黒人が倒れていた。その横で、ラスタカラーのTシャツを着て迷彩柄のズボンを穿いた白人の男と、髪が腰まで長くて迷彩のブラジャーにお尻が半分見えているローライズのジーパンを穿いた日本人の女がキスをしていた。倒れている黒人は靴を履いていなくて、足の裏の薄い紫がかった白色を見たとき、ハルはボーカルのペニスを思い出した。
「お客さんは、美人だから、もう沢山の男がいるんでしょうね?」
タクシーは速度を上げると、前を走っている黄色いスクーターを追い越した。スクーターに乗っていた着物柄のアロハシャツを着た髪の長い男が、なにか叫んでいる。運転手はサイドミラーを見ながら長いあくびをすると、すいませんとハルに誤った。
「朝方に美人さんが一人でタクシーに乗るなんて、彼氏と喧嘩でもしたんですか?」
運転手はそう言うと、ハルが開けた窓をリモコンで閉めて、お前、本当は売春婦だろうと言った。
「僕の言っていること分かりますか?あんたが、ホテルから出てきたのを僕は見ていたんですよ。高級なホテルだからな、やっぱり女もあんたみたいないい女が呼ばれて行くんだろう?週刊誌に書いてあったのは本当なんだな。この時間多いんだよ。あんたみたいな女を乗せるのが」
ハルが一瞬バックミラーに映る運転手の顔を見ると、運転手は黒い瞳を大きく開きながら、別に恥ずかしがることなんてありませんよと、青白い舌を出して言った。
「さっきも言ったけど、私は想像するのが好きなんですよ。だから今は、お客さんのことを想像している訳ですよ。分かる?いいでしょう?あんたはいくら出せばやらせてくれるの?あんた美人だからな、そうとう高い?八万ぐらい?お客はやっぱり有名人とか政治家かな?あのホテルは政治家がよく泊まるからな、三十万ぐらい?どんなことするのよ?しゃぷったりする?変態プレイとかする?肛門とか浣腸とかさ。親はあんた売春婦だってしってんの?今さ、ここに今日の売り上げ三万円あるからさ、一万五千円で私のあれをしゃぶってくれない?あれって分かるよね?やっぱ三万円かな?パンツを脱いで足を開いてあれを見せてくれたらタクシー料金半額にしてあげるよ。あれって分かるよね?」
運転手は青白い唇に泡をためながら話し続けている。
「ドラックがないと駄目なのかな?週刊誌に書いてあったからな」
運転手はダッシュボードを開けて、小さな茶色の小瓶を出すと、それを振りながらハルに見せた。小瓶には白い文字でQuick Silverと書いてあった。
「これ、なんだか分かる?合法ドラック。今はもう売ってないやつ。一ダース買ってあるけど。鼻で吸うの、がーつんってくるよ。心臓なんか、ドッキンドッキンってさ。オナニーのときに使うやつだけどさ、こんなじゃ駄目かな?やっぱコカインとかマリファナとかじゃないと駄目なのかな?ねえ、なんとか言ってよ」
運転手は無表情で、黒い瞳だけを大きく開いたり小さくしたりさせながら話し続けて、ハルがなにも答えないでいると、この女は馬鹿なんだなと言って、ハルが言ったとおりに渋谷橋交差点でタクシーを止めた。
 料金を受け取るとき、運転手はハルの足を見ながら、長く伸ばした小指の爪でハルの手の平に触れた。その時、一瞬だけ運転手の頬の筋肉が痙攣して顔の表情が変わった。

 ハルは痛む頭を抱えてゆっくりとベッドから起きあがると、キッチンへ行き、冷蔵庫から緑色のナチュラルウォーターのボトルを取り出し、リビングの赤色の革張りのソファーに座わった。ミネラルウォーターを飲みながら、ソファーの上にあった茶色のワンピースとテレビのリモコンを手に取りリモコンのスイッチを押した。テレビの画面に映し出された映像は、この頃ワイドショーで何度となく繰り返し放送されているロックミュージシャンのコンサート映像で、マイクを握り締めて歌うミュージシャンの顔のアップからミュージシャンの住むマンションの前へと画面が変わり、ピンク色のワンピースを着た芸能リポーターが話し始めた。画面がコマーシャルに変わり、アイドルの男の子が携帯電話で話しているのを見ながら、ハルは何気なく手に持っていたワンピースを顔に近づけた。マリファナの匂い?ハルはもう一度匂いを嗅いでからワンピースを広げて見た。お尻から裾にかけて白い塊が細い線状になってこびり付いている。
「この白いの、なに?」ハルは小さく呟いた。少しずつハルの心臓の鼓動が速くなり、その鼓動に合わせて頭の後ろで痛みが強くなった。ハルは両手で頭を抱え込みながら、昨日、タクシーに乗る前のことを思い出そうと集中した。でも、思い出そうとするのだけれども、頭の中で痛みが響くのと一緒に記憶が逃げてしまう。ハルはワンピースについている白い線にそって右手の小指で触れてみた。
 そのとき、一瞬、鼻の奥で甘い何かが焦げた匂いがして、部屋のフローリングの床が毛足の長いクリーム色の絨毯に変わり、足先にそのフカフカで軟らかい感触が戻り、自分が座っている隣にギターとボーカルがいるような気がした。
「全てがクールなんだ」
「君は物になれるか?」
ハルは自分のオマンコに触れた後、お尻から太ももにかけてこびり付いているカサカサに乾いたボーカルの精子に触れながら、ホテルで起こったことを全て思い出した。テレビの画面ではロックミュージシャンの歌っている映像が映り次にオカマの映画評論家が話し始めた。ハルは鼻の下にコークが付いている気がして、鼻をすすった。昨日、私はアナルにペニスを入れた。そして、あの音が頭の後ろで鳴って、鼻の奥であの匂いがした。幼い私の小さな指がヌルヌルに光っていてそれは、とても気持ちのいいこと。ハルの口の中に酸っぱい液体が込み上げてくる。頭痛と吐き気の中で、記憶の引き出しが音をたてて開き始める。スキンヘッドの女の子がペニスから溢れ出る精液を指ですくって舐める。ボーカルは心の深いところにある物を開放すればいいと言った。私は理解できないと言った。
「理解?ハル、君はこの部屋で何かを感じて解放したはずだろう。それを素直に受け止めるだけでいいんだ。ただそれだけさ」ボーカルは言った。アナルにボーカルのペニスの感触が戻ってくる。ハルの頭の中で、幼い自分のあえぎ声が響き、クリトリスに血液が集中していくのが分かった。ハルはトイレへ駆け込むと、便器の中へグチャグチャの液体を吐き出し、ブルーと白のタイル張りの床にしゃがみこみ、自分が吐いた物を見つめながら、今、オマンコにワインボトルを入れてもらったらどんなにいいだろうと思った。私は変態なの?おかしいの?ママは病気だと言い、ボーカルは受け止めればいいと言った。もともと私の心の深いところにあった物。ただ自分に嘘をつかないこと、ギターは心の扉を開けると言った。ハルは自分の右手の人差し指をオマンコの中へ入れ、そして物になったときの自分に集中した。ホテルの毛足の長いクリーム色の絨毯、ゆっくりと回るオープンリール、キラキラと光るクリスタルのライト、スキンヘッドと鼻ピアスのエナメルに包まれた体、ドラムとベースのペニスから流れる精液、その匂い、ボーカルのペニスの感触と精液のバターが焦げたような匂いと味、ギターの指先、ペパーミントのテーブル、小さな女の子、マーガレットの花、そしてあの音と匂い。そのイメージはハルの心にゆっくりと沈んでいき底で眠っていた幼い頃の自分と重なり小さな粒子となって細胞の中へ染み込んでいった。オマンコへ三本目の指を入れようとしたとき、クリトリスに集中していた意識が麻痺して開放された心が痙攣をしながら高速で体中の血管を駆け巡り前頭葉で覚醒して、ハルは生まれてから最高のオルガズムを感じた。
 ブルーと白のタイルの床に背中を丸めて寝そべり、ヌルヌルのオマンコに指を三本入れたまま、目を閉じて、心臓がハイスピードでクリトリスに血液を送り出すリズムを聞きながら、ハルは自分に全てを受け止める心がありますようにと、祈っていた。

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