​長編 エナメルの夜を泳ぐ魚達

#-07 再会

二子玉川の高島屋の8階にあるスターバックスコーヒーでアキラとリリーはハルを待っていた。茶色いソファーに座り三杯目のエスプレッソを飲んでいるアキラにリリーは、ハル、遅いねと、携帯電話の時刻を見ながら言った。時間は午後の二時を過ぎたところで、約束の時間から一時間が過ぎていた。

「忘れているんじゃないの?」アキラが言った。

広いフロアーにABBAのダンシングクィーンが流れている。

「ここのスターバックスはベビーカーと綺麗なお母さんが多いね」アキラはそう言って横の席に座っているモスグリーンのワンピースを着たお母さんの横でベビーカーに座りじっとリリーを見ている栗色の短い髪をした赤ちゃんに小さく手を振った。コムサ・デ・モードの白いベビー服を着た赤ちゃんは声を出さずに笑い、体を上下に動かした。

「ちゃんと約束したの?時間とか場所とか間違ってない?」アキラが言った。

「間違ってないよ。時間も、場所も」リリーは空になった二杯目のアイスコーヒーのカップを持ち上げながら言った。

「でも、もう二時過ぎたよ。寝てるんじゃない?」

「そうかもね。ハル、昨日ライブを見に行くって言ってたから」リリーはもう一度携帯電話の時間を見た。アキラ達が座る後ろの席に、長い髪にツイストパーマをかけた小学生ぐらいの女の子と黒い袖なしワンピースを着た女性が座った。女の子はジュンコを見ると、ママ、後ろの席にお人形みたいな人がいるよと言い、ママはそうだねと持っていた雑誌のページをめくりながら言った。

「誰のライブを見に行ったの?」アキラが言った。

「よく知らないけど、ロンドンのバンドって言ってたよ。二年前にハルがカムデンロックでやったインディーズのコレクションの仕事をしたときに知り合った人が、バンドのマネジャーでその人から招待されたって」リリーはアイスコーヒーの残っている氷をストローでかき混ぜながらアキラを見つめた。

「そう、きっとまだ寝てるんだよ。お腹すいたからさランチを食べに行こうよ」

二人が席を立とうとしたとき、ツイストパーマの女の子がリリーの横に来て、お姉さんはモデルなの?と聞いた。リリーはすこし困ったような顔をして、そうだよと言った。

「でも、もう辞めてしまったの」

「やめたの?」女の子が言った。

「私ね、大人になったらモデルになってきれいな洋服をたくさん着るの」女の子はねじれた髪の毛をふさふさと動かしながら言った。リリーは女の子に微笑えんで、モデルになれるよ。きっとねと、言った。

「だって、その髪はとても素敵だもの。それから、着ているヒステリックグラマーの洋服もね」リリーはそう言いながら女の子の頬に右手の人差し指で軽くふれると、女の子はいい匂いがするねと言って、席へ戻ると、やっぱりお姉さんはモデルだってとママに言い、ママは雑誌を読みながら、そう、と言った。女の子を見ていたアキラにリリーは、ハルに電話してみるねと言った。

 ハルがシャワーを浴びながら電話の呼び出し音を数えていると、六回目のコールで切れて、それが五分おきに七回続き、八回目でハルは受話器を取った。ハルは濡れた体を水色のバスタオルで拭きながら受話器を耳にあてたまま台所へ行き、冷蔵庫を開けて冷凍室からバニラアイスを取り出し、キッチンに置いてあるペパーミント色の木製の椅子に座った。

「おはよう、ハル、寝ていたのか?」バンドのマネージャー、シーシーが言った。

「寝てた」

「起こして悪かった。でも、十四時を過ぎているんだよ。なあハル、東京の暑さは少しずつ体を弱らせていくウイルスみたいだと思わないか、早くロンドンに帰りたいよ」

シーシーの低く重い声がハルの耳の中を這って行く。きっと、芋虫が這っている音をマイクで録音したらこんな音に聞こえるのかもと、ハルは思った。

「それで?」

ハルはバニラアイスを膝の上に置き、シルバーのスプーンですくって口に入れた。

「ハル、昨日の夜は楽しんでくれたか?あいつら、ジャンキーは君に失礼なことはしなかったか?」

「べにつ、何も、楽しかった」

ハルは、指を三本入れたオマンコに残る心地好い痛みを感じながら、少しだけ足を開いた。「失礼なことをしたのは貴方じゃない?」

「ハル、僕もパーティーに参加できればよかったのだけれども、次のツアーの打合せさ。分かるだろう?これから、名古屋、大阪、仙台、札幌、大変なんだ、仕事だったんだよ。それに、バンドのメンバーは私のことをあまり好くは思っていないだろう。ハルとのプロジェクトも大事だけど、今はジャンキーの面倒を見なくてはいけないんだ。でも、ハルが怒っているのなら、僕は謝るべきなのか?」ハルはシーシーの声に、いらついているのが分かった。

「別に、誤って欲しいとは、思っていないわ、それに、貴方が私をマネージメントしてくれた仕事、断ることに決めたの。それについて、私はシーシーに謝るべきかしら?」

「断る?言っている意味がよく理解できないな。ハル、バンドに何か言われたのか?何かされたのか?」

シーシーの声が一オクターブ高くなり、芋虫が這う音から、青虫に変わった。

「バンドは好い人達よ。楽しい気持ちにさせてもらったわ。シーシーにお礼を言いたいぐらい」

膝の上に置いているバニラアイスが溶け始める。蒸発していく甘い香りが微かにして、ハルはアイスを数回スプーンでかき回してから口に入れた。甘い匂いは鼻の奥で、幼い頃のイメージを心の底から引き上げて、幼い自分がママに色鉛筆を取り上げられママはそれをゴミ箱に捨ててその捨てた色鉛筆の色はペパーミントだったことをハルは思い出した。

「それでは、何故だ?今度のプロジェクトはハルにとってビックチャンスだろう?カムデンロックでやったコレクションとは規模が違うのは知っているだろう?東洋系のモデルはハルだけなんだ。世界で注目されるのは間違いないし、お金も沢山手に入る。ビッグマネーだよハル。ウェストミンスター寺院を会場にして、音楽はデビッドボーイ、デザイナーは・・・ハル今更、言わなくても分かっているだろう」

シーシーの一オクターブ高くなった声に苛立ちのビブラートが加わり、青虫からハエに変わった。ハルの耳の中でブゥゥゥゥゥゥゥンと鳴り響き、頭の中を飛び始める。

「ハル子供が見るくだらない雑誌のモデルなんかもうやりたくはないだろう?」

膝の上のバニラアイスの円く小さな容器から雫が落ちて、黒と白のチェッカーズカラーの床を濡らした。白いゴミ箱の中にあるペパーミントの色鉛筆の金色文字の部分が私の体から出たヌルヌルの液体で光っていて、その光が私にとてもいけないことをしているんだという気持ちにさせた。ハルは、鳴り響くハエの飛ぶ音にいらつきながら、椅子から立ち上がると溶けているバニラアイスをキッチンの排水口へ流し入れた。排水口に流れ落ちるクリーム色を見てハルは、ベースとドラムのペニスを思い出した。

「シーシーに言っても分からないと思うけど、私にとってモデルはもうどうでもいいの。有名になるとか、お金とか、どうでもいい。私の心の深いところがモデルなんか辞めてしまえって言ってるの。ねえ、シーシー、アトナー色素って知ってる?安定剤って何のためにあるの?」ハルはバニラの容器をゴミ箱に捨てると、左手で自分の右胸を強く握った。胸に付いた赤い五つの小さな爪痕をなぞると、そこがまるで心のなかのいらない物のような感じがしてこの痕が消えたら要らない物がなくなればいいのにと思った。シーシーは一オクターブから更に二オクターブ音域を上げ、ヘビーメタルのボーカルのように、よく伸びるハイトーンシャウトで君には失望したと叫び、君の代わりはいくらでもいるんだとパンクバンドのボーカルのようにファックを三回繰り返し叫んで電話を切った。

 ハルは受話器を握り締めたまま、濡れて肩に張り付いている長い髪の先から流れる水滴が、胸の谷間から陰毛へ流れて行くのを目で追っていた。微かに受話器を持つ手が震えている。心の底に沈んでいたものを自分が受け入れたとしても、それを他の人は受け入れてくれるの?ママとパパは受け入れてはくれなかったよ。

 ハルは、リリーの家の番号を押すと、機械的に話す留守番案内の声の後に、今日は行けなくなったよ。二日後の午後2時にしようと言って、電話を切った。

 胸の爪痕は薄くなり小さな赤い点になっていた。

@ 2016 by snow sound /shasin no heya

  • Twitter - Black Circle
  • Instagram - Black Circle
  • Facebook - Black Circle
  • YouTube - Black Circle