​長編 エナメルの夜を泳ぐ魚達

#-08仮名(木村ゆうこ)

ユキネはテレビの電源ボタンを押すと、オサムに服を着てくれと言った。テレビの画面にのこっていた仮名〔木村 ゆうこ〕の口元の残像がゆっくりと黒のなかに溶けて消えていく。オサムはバスルームへ行き、黒い革の半ズボンとピースマークがプリントしてある白いTシャツを着て、窓のカーテンを少しだけ開けて、空を見上げた。

「雨でも降ればいいのに、そうしたらあいつら、いなくなるでしょう?」オサムは空を見つめたまま言った。

「そんなこと、もうどうでもいいよ。あの人達も仕事なんだし、だって普通嫌だろう?こんなよく晴れた暑い日にずっとワゴンの中にいてさ、いつ出てくるか分からない僕を待っていて、家族がいたらこんな日はピクニックとか海水浴とか旅行とかじゃないか?歌いたくない歌でも歌わなくていけない、ビジネスだろう?みな同じさ」ユキネは、黒くなった画面を見つめたままそう言った。

「コーヒー入れるね」オサムはカーテンを閉めると、キッチンへ行った。ユキネはソファーに座ったまま目を閉じて、仮名〔木村 ゆうこ〕の顔を思い出そうとした。さっきまでテレビに映る唇や顎のラインや指先の赤いエナメルや細い足首を見ていたのに、仮名〔木村 ゆうこ〕の顔を思い出すことができなかった。思い出せるのは、白い肌と紫色の石の指輪と、そしてオマンコの甘い匂いだった。目を開けると、横にオサムが座っていた。テーブルにはコーヒーの入った小さな白いカップが二つ並んで置いてあった。

「それで、人を殺した話と、レイプのこととなんの関係があるの?」オサムはカップを両手で持つとカップの中のコーヒーの周りにできた茶色く小さな泡を見つめながら言った。「オサム、仮名〔木村 ゆうこ〕の本当の名前は、ユキカって言うんだ」ユキネはテーブルの上に人差し指で雪華と書いた。

「僕に二歳年上の姉がいるって話したことあったか?正確に言うと、居た、なんだけど」

オサムは覚えてないよと言うとコーヒーを一口飲んだ。

「姉の名前もユキカって言うんだ」ユキネが言った。ユキネはコーヒーを一口飲むと、オサムにCDプレイヤーのボタンを押してくれと、言った。

「話をするときには、なにか音楽が流れていた方が僕は話やすいんだ。リズムがとりやすいだろう、言葉の」

ヤマハのスピーカーからOasisのDEFINITELY MAYBYが流れる。ユキネは今聞きたいリズムではないと思ったけれど、聞きたいリズムがなんの曲かは自分でも分からなかったからそのままで話をすることにした。

「彼女と初めて会ったのは、駅の側にあるセブンイレブンなんだ」ユキネが言った。

「駅ってどこ?」

ユキネはマルボロに火を点けて煙を吸い込むと、ゆっくりと煙を吐き出しながらカーテンが閉じている窓を見た。

「上野毛?」オサムが言った。

「そう、オサムがいつものように、タバコとコーラーとサンドイッチとポテトチップスを買ってくる店だよ。僕が、買い物を済ませて店を出ようとしたときに呼び止められたんだ。ユキネさんですよねって。振り向くとそこには黒い袖なしワンピースを着て網タイツに赤いハイヒールを履いた彼女が立っていた。僕は彼女にそうだよと言った。彼女は僕の歌が好きなんですと言うと、じっと俯いたまま何も言わないから、僕はありがとうと言って店を出たんだ。その日は五枚目のシングルのレコーディングが終わった日で僕はとても疲れていて誰とも話したくなくてはやくベッドで眠りたくて、それに、朝の五時に知らない女となんか話したくはないだろう?」

オサムはそうだねと言って、持っていたカップをテーブルに置いた。

「店を出て環八を歩いていると、彼女は僕の後を追ってきて僕の腕を掴むと、でも、今歌っているバラードはよくないですって言ったんだ。僕はそれを聞いて、僕もそう思うよって答えた」

「ねえユキネ、彼女は綺麗な人だった?」オサムはそう言うとユキネの肩に頭を乗せた。

ユキネがそんなことはこの話に関係がないだろうと言うと、オサムは僕には関係があるんだと言った。ユキネは吸っていたマルボロを消すと、彼女は普通だったと言った。

「綺麗でもないし悪くもないし、体も痩せてもないし太ってもないし、普通だった。なんて言えばいいのかうまく言えないけど、特徴がないかな?実際、店を出た後、彼女が僕の腕を掴むまで僕は彼女のことを忘れていたしね」ユキネはそう言ってコーヒーを飲んだ。

オサムは分かったと言うと、空になったコーヒーカップを持ってキッチンへ行き、新しいコーヒーを入れてきた。

「ユキネのコーヒー、冷めてしまったでしょう?新しいのに入れ替えようか?」

ユキネは、いらないと答えて話を続けた。

「僕が彼女に、なぜ今歌っているバラードは良くないのと聞くと、彼女はユキネさんの歌っている顔を見ていれば分かりますと言った。そして、握っていた僕の腕を放して御免なさいと誤ってから、こんな時間に突然変なことを言ってすいませんと頭を下げて、駅の方へ歩いて行ったんだ」

オサムは僕だってそれぐらい分かると言ってユキネの顔を見つめた。ユキネはオサムを一瞬見てから黙ってタバコに火を点けた。

「ごめん、話を続けて」オサムが言った。

「僕はその後、部屋に戻って寝て起きたときには彼女のことは忘れていた。記憶の片隅にも残っていなかったと思うよ。それから、十日ぐらいかな?セブンイレブンでまた後ろから声をかけられたんだ。ユキネさんですよねって、僕はそうだよって答えてその女の子を見た。その子はまた会えて嬉しいですと言ったんだ。でも、僕は彼女のことはもう覚えていなかったから、悪いけど君に会ったのは今日が初めてじゃないかなって言った。彼女は悲しそうな顔してそうですかと言うと俯いたまま何も言わないから、そのまま僕が店を出ようとしたときに、今歌っているバラードは好きじゃないでしょう?って言ったんだ。その言葉で僕は彼女を思い出して、そして僕の顔を見つめながら彼女は私のことを思い出してくれましたか?といって僕は思い出したよって答えたんだ。彼女は前に会ったときと同じ服を着ていた。黒の袖なしワンピースに網タイツに赤いハイヒール。でも、前とはないかが違うような気がしたんだ。肌の色がとても白かったんだ。透けるような白い肌というのはこうゆう肌のことをいうのだろうなと思った。彼女の肌にうっすらと浮かぶピンク色は毛細血管が透けている色なんだ。僕はなぜ前に会ったときに気づかなかったんだろうと思った」

オサムはコーヒーを飲み干すと小さくため息をつきタバコに火を点けると落ち着きがなさそうに煙を吐き出すと、すぐに消した。オサムのタバコを消す指が小刻みに震えている。ユキネはオサムにどうかしたのかと聞いた。「何でもないけど、」オサムが言った。

部屋に流れていた曲が、ShERYL CROWに変わった。ユキネはアコースティックギターの音を聞いてリズムがよくて話やすくなったと思った。

「僕と彼女は一緒に店を出て彼女は持っていた黒のハンドバッグの中から、システム手帳を取り出すと、お忙しいところ申し訳ありませんがサインをしていただけないでしょうがと言った。僕は別に今は忙しくはないよと言いながらその手帳を受け取り、彼女が僕に言った言葉、今歌っているバラードは良くないですと何回か頭の中で繰り返しながらサインをしたんだ。そして、いつものように名前をサインの横に書こうと思って彼女に名前を聞くと、彼女は、雪に華族の華と書いてユキカといいますと言った。その名前を聞いた瞬間、僕のペンを持つ指に姉の唇の感触がよみがえって、僕がペンの先を見つめたままでいると、彼女はもう一度、ゆっくりと雪に華族の華と書いてユキカと言った。そして彼女の名前が僕の心の底に沈めていた記憶に触れたんだ。僕は持っていたペンを落としてその場に立ちつくし彼女の顔を見つめていて彼女は驚いたようすでペンと手帳を拾って僕に大丈夫ですかと聞いて僕はそれには答えられずにだたじっと彼女を見つめるだけで僕は頭の中で彼女がなぜこの名前を口にしたのか考えていてそして彼女が僕の大切にしていた名前を汚したような気がして怒りがこみ上げてきて彼女の顔を見つめているのだけれども僕の瞳に映るのは姉の顔で姉が僕に向かって「ユキネ、アナタノコトヲワタシガドレダケアイシテイタノカワカル?」と言っていて僕は胸が苦しくなり口の中に唾液が溜まって僕はその場にうずくまり胃の中にあるものを全て吐き出してしまったんだ。

「ユキネ大丈夫?新しいコーヒーを入れようか?」オサムがユキネの顔を見つめながら言った。話している内容が、名前のところになったあたりからユキネの顔になんの表情も表れなくなった。ただ、言葉を吐き出しているだけだ。蝋人形のようだとオサムは思った。感情が消えてしまった。

「彼女は吐いている僕の肩に手を置いて大丈夫ですかと何度も何度も繰り返していて肩に置かれた彼女の手の暖かさと重みが僕の心に沈めていた記憶をかき回して僕は吐きながら姉の綺麗な白い肌と体の線とその体に付いたピンク色の傷を思い出して僕はしっかりと瞼を閉じているのに姉の顔と体ははっきりと見えて僕は彼女に僕の肩に手を置かないでくれと言いたいのに声が出なくて咳き込みながらこみ上げてくる吐き気に体を震わせていると彼女は僕の気持ちが分かったかのように僕の肩から手を離して今度は僕の頭にそっと手を置いてそれは姉が僕にしてくれたのと同じでそしたら今まであんなに苦しかった吐き気が消えて彼女は僕が落ち着くまでずっと頭に手を置いてくれて僕が立ち上がと白いハンカチを出してくれて微笑んでいるユキカに僕はもう大丈夫だからと答えてハンカチで口を拭きながら彼女の白い手に浮き出ている細い血管を見て僕の姉に似ているなと思って僕は彼女に僕の部屋に来ないかと言って彼女は少しの間何か考えていた感じででも嬉しいと僕に言ってマンションのエレベーターの中で彼女は僕の腕に触れてユキネさんの肌は白いですねと言って僕は彼女に君の肌の白さと名前は僕の姉と同じだと言ったんだ」ユキネは何も映っていない画面を見つめながら言った。

「ユキネ、僕、なんだか息苦しくなってきた、窓開けるね」

オサムはカーテンを閉めたままの窓を開けた。

大井町線の電車が走る音が微かに聞こえてきた。

「カーテン閉めたままだと風は入らないね」

オサムが言った。

「オサム、この話し聞きたくないのか?止めてもいいよ」ユキネが窓の側に立っているオサムに言った。

「ユキネ、僕はユキネのことが好きなんだよ、ユキネも僕のことを好きなのは知っているけど、でも僕がユキネのことを好きと思う気持ちほどユキネは僕のことを好きじゃない。そんなこと今はどうでもいいけど、今、ユキネが話している内容は僕の心をとても苦しくするんだよ。なんて言っていいのか分からないけどこれからもっと聞きたくない話が続くかもと思うと、怖いんだ」

ユキネはソファーから立ちあがりCDを止めると、オサムに向かって好きと言う気持ちを人と比べるのはいいことじゃないと言った。

「誰も、心の中を知り尽くしている奴なんかいないんだから」

ユキネはそう言ってオサムのオレンジ色の短い髪にそっと触れた。

@ 2020 by snow sound /shasin no heya

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