​長編 エナメルの夜を泳ぐ魚達

#-09 雨の日は嫌い

 高島屋の八階にあるスターバックスコーヒーの窓際にある赤い革張りのソファーに座り、ハルはテーブルに肘をついてオレンジジュースを飲んでいた。初めアキラとリリーは赤いサテンの長袖ワンピースを着た女の子がハルだとは気づかなかった。

「ハル」リリーがハルの肩に手を乗せて言った。

ゆっくりと振り向くハルは髪の毛を全て剃っていた。ダイヤのピアスをしている右耳の上に三cmほどのトカゲのtattooを入れている。もともと色白だったハルの肌が透けるほど白くなっていた。アキラは振り向いたハルの顔を見て、リリーが一年前にロンドンのコベント・ガーデンで買った銀髪のアンティーク人形を思い出した。ハルはゆっくりと瞳を動かしてリリーを見て、また、ゆっくりと瞳を動かしてアキラを見て、赤いエナメルの唇を微かに開き微笑んだ。ハルの左目の下に蒼く細い血管が一本透けて見える。リリーもアキラも何を話していいのか分からずに、アキラは久しぶりだねとあたり前の挨拶をした。

「アキラと会うの、一年ぶりだね」ハルが言った。

「そんなに会ってなかった?」アキラが言った。

「うん、一年だよ。リリーが仕事を辞めてから、もう半年が経ったから」

「この前、どうしたの?約束を忘れて寝ていた?」リリーがそう言ってクールに火を点けた。

「あっ、そのzippo、ハルがプレゼントしたやつでしょう?」

リリーはハルに向かって微笑み、インディアンの顔が彫ってあるシルバーのzippoをテーブルに置いた。

「この前は、ごめんね。いろいろとあって、約束、忘れた訳じゃないよ」ハルがzippoを手に取りながら言った。

「いろいろって?そのスキンヘッドと何か関係がある?」リリーが言った。

「この頭、どう?いいでしょう?」ハルは窓に映る自分を見て飲んでいたオレンジジュースのストローを口に咥えた。リリーは何も言わずにアキラを見た。アキラがストローを咥えてるハルに、そのトカゲいいねと言うと、ハルは左肩にもトカゲが居るよと言って微笑んだ。

「後で見せてあげるね。それから、いろいろは、今は言わない」ハルはリリーのクールから一本抜き取ってインディアンで火を点けた。

「皆、元気なのかな?事務所の子とか?」リリーが言った。

「うん、チカはコマーシャルが決まったし、マユは映画だし、ココもナオミも元気だよ」ハルはそう言うとクールを消してオレンジジュースを飲み干すと、少しの間アキラの顔を見つめてから、雨の日は好き?と言った。

「えっ?」リリーが聞き返した。

「あのね。ハルはあまり好きじゃなかったの。子供の頃、雨の日にね、お父さんとお母さんから、今日は大事なお客様が来るから、ハルは二階のお部屋でよい子にしていてねと言われて、ハルは自分の部屋で本を読んでいたの。本の題名は少女子ゼット。赤いハードカバーでね挿絵の付いたやつ。お父さんがハルの六歳の誕生日にプレゼントしてくれた本で宝物だったの。少女コゼットが、テナルディエ家に預けられて、そこの母親と子供に苛められて、犯罪者のジャンバルジャンが助けに来る物語。夕方の四時ぐらいにね本を読むのに飽きてしまって窓から外を見るとね、細かい霧みたいな雨が風に吹かれて揺れているの、レースのカーテンみたいに。ベランダの白い椅子に茶色い手ディーベアが置いてあって、その時にこのままじゃクマが風邪をひいてしまうと思ってハルはクマを取りにベランダに出たの。雨と風がとても強くて、少し寒かったんだけど、不思議と嫌ではなくて、ハルはクマを膝の上に乗せて椅子に座って顔を上に向けて雨が降る空をみながら、今、私は苛められた家から逃げ出したコゼットで私は雨の中を一人でジャンバルジャンが助けに来るのを待っているって想像すると雨が顔に当たる感覚が気持ちよくて楽しくてワクワクした。どれぐらいベランダの椅子に座っていたのか覚えていないけど着ている洋服はびしょびしょに濡れていてこのままだとママに叱られるって思ったからハルは服と下着を脱いで裸でベッドに入ってクリーム色の毛布の中はとても暖かくて濡れた髪の毛から雨の匂いがして風の吹く音と雨の雫が屋根に当たる音が聞こえて一階のリビングからは微かにパパとママとお客様の話声が聞こえてその時ねハルは初めて、オナニーしたの」

ハルの赤いエナメルの唇から吐き出される言葉は生々しくアキラの首筋に絡んで、アキラは乾いた唇を舌で舐めながら、ハルの周りに流れている空気の流れみたいなものが止まったように見えると思った。リリーはオナニーしたと言う言葉に一瞬ビクンと体を震わせ、アキラの顔を見て何か言いかけようとしたけど、軽く息を吐き出してから、またハルを見つめた。

「オナニーっていってもね、そのときはそれがオナニーだなんて分からなかったんだよ。手の指をね、当てていると」ハルは赤いエナメルを塗った細い左中指を口に当てて爪を噛んだ。

「とても、気持ちがいいの。ベランダで茶色いクマを抱いてジャンバルジャンを待ちながら雨にうたれているときとは全然別の気持ちよさ。なんて言ったらいいんだろう?ベランダの気持ちよさは希望とか歓喜かな。ベッドの中での気持ちよさは海で溺れかけたときにもがきながら底に沈んでいくときに見る海面でキラキラと揺れている太陽の光と海水が体の中に入ってくる暖かさかな。そんな感じ。その日からハルは雨の日には必ずオナニーをするようになったのだけどね終わった後にね終わったっていってもいくとかじゃなくてなんとなく終わるかな?お友達とお人形遊びやかくれんぼをしていたのをなんとなく止めた感じに似ているかな?終わった後にね気持ちがいいのと悪いことをしているんじゃないかなって思う気持ちがごちゃごちゃになって胸が押し潰されそうになるのお母さんにハルは二階で何をしていたのって聞かれるのがすごい嫌で、でも止められないの」

リリーがハルの顔を心配そうに見つめながら話しかけようとしたのを、アキラはリリーの太ももに手を置いて止めた。

「学校にね、ミカっていう同い年の友達がいて、ハルが雨の日のことを話したら、ミカは、ハルちゃん淫乱だねって言ったの。ハルが淫乱ってなにって聞いたらミカは笑いながら悪いことしてる人だよって言ってミカにハルと同じことしたことあるって聞いたらミカはそんな汚いことはぜったいしないって言ってハルは自分のしてることは悪くて汚いことなんだって思ったの。家に帰ってママとパパと一緒にテレビを見ているときにハルは淫乱って知ってるって二人に聞いてテレビの画面では猫のトムが自分の仕掛けた罠にかかってネズミ捕りを鼻に挟みながらピョンピョン飛び跳ねていてそれを見ているネズミのジェリーは指を指しながら床を叩いて笑っていてパパもママも一緒に笑っていたのにハルが淫乱って言ったら二人とも笑うのを止めてパパが私の頬をぶったの。その音は今でも頭の後ろに残っていてたまに聞こえるんだよ。そして鼻の中が切れて血が出たときの甘い匂いも。ママが誰がそんな悪いこ言葉を教えたのって私の肩を強く握ってパパがそんな汚い言葉をっていいながらまた私の頬を殴ってテレビではジェリーがトムにピストルで撃たれてお腹に大きな穴があいて私は二人の変わってしまった表情に驚いて何も言えなくなって黙っていると二人が私の手を痛いぐらい強く握りしめながら誰が誰が誰が誰が誰がと何回も叫んで私は二人を見つめながらミカが言っていたとうりに私のしていることは悪くて汚くて淫乱でもうオナニーはしないって思ったの。でも雨の日が来るとしてしまうの。毎日、毎日、雨の日が来ませんようにってお祈りして、でも駄目なの。ママは私を病院へ連れて行くって言うの。パパは私のことを好きじゃないって。でも、駄目なの、止められなの。だからハルは雨の日が嫌いなの」

 話を止めたハルの左目の下にあった蒼い血管がなくなっていた。リリーは小さく息を吐き出すと、トイレに行くといって立ち上がった。

「アキラ、今の話、面白かった?リリーは怒ったかな?」空になったオレンジジュースの容器の中の氷をストローでかき回しながらハルが言った。

「怒ってないよ。でも、突然のそんな話でしょう?それにスキンヘッドにトカゲのtattooに雨は嫌い」アキラが言った。

「そうだよね。ごめんね」

「誤ることはないよ」アキラはそう言って俯くハルの長いまつ毛に手を伸ばしてそっと触れた。顔を上げて微笑むハルは、アキラが今まで知っているハルのなかで一番美しく見えた。どんな最高のコレクションの舞台に立っているモデルよりも美しいと思った。

トイレから戻ったリリーはソファーに座ると、話の続きは?とハルに聞いた。ハルは、お話はもうおしまいと言ってソファーから立ち上がった。

「お腹がすいたから、ランチに行こうよ」ハルが言った。

「ハルは、マハリシのカレーが好きだったでしょう?」リリーが言った。

ハルは爪を噛みながら窓に映るリリーとアキラに向かって、今日は空がとても青くて綺麗だから多摩川の川原でランチにしょうと言った。

@ 2020 by snow sound /shasin no heya

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