top of page

​長編 エナメルの夜を泳ぐ魚達

#-10 ランチ

 フランスパン三本、ロックフォール二個、ブリー・ド・モーチーズを二個、アンチョビ入りのグリーンサラダを二つ、生ハム六枚、野菜入りモルタデラー六枚、ムルソー一本、シャブ一本、コントレックス一本、ピクニックシート一枚を高島屋の地下にある明治屋で買い、アキラとリリーとハルは多摩川の川原の田園都市線が走る陸橋の太いコンクリートの下にシートをひいて柱にもたれて座りランチを食べ始めた。川は太い流れと細い流れに幾つも別れ、太陽の光が反射して金色に輝いている。川の流れが交差している所で小学生ぐらいの男の子二人が釣りをしていた。

「多摩川に魚なんているの?」ハルが生ハムとレタスをパンには挟み、その上にアンチョビを乗せて聞いた。

「ここは、すごくデカイ鯉がいるんだ」アキラがパンを千切りながら答えた。

「どれぐらい?」ハルが聞いた。

「一mぐらい」

「一m?本当に?」

「嘘」

「本当はどれぐらい?」

アキラはロックフォールチーズを食べながら両手を肩幅に広げた。

「大きいね」ハルが驚きながら言った。

「すごいだろう。僕も一度だけ釣りに来たことがあるけど、全然釣れなくて、近くで釣りをしていた小学生がさ、五十センチぐらいの鯉を釣り上げて、この川にはもっとでかい奴がいっぱいいるって教えてくれたんだ」

「橋の上から川を見ると沢山泳いでいるのが見えるよ。アキラ、ワインの栓、抜いて」リリーがムルソーをアキラに渡した。

「外で食べるのっていいね。小学生のときに遠足で山とか海へ行くでしょう?今ね、お母さんが作ってくれたお弁当の味を思い出した、卵とハムのサンドイッチ。今日、リリコとアキラに会って良かった」ハルが言った。アキラがフランスパンを手で小さく千切ってハルに渡したとき、ハルは手に持っていたモルタデラーと一緒にペーパーアシッドをアキラに渡した。一センチほどの小さな灰色の四角い紙にバッドヘッドの顔が書いてある。ハルはリリーに気づかれないようにアシッドを舌の上に乗せた。

「ハル、そのスキンヘッドとトカゲはどうしたの?」リリーが指に付いたアンチョビを舐めながら言った。

「髪の毛は邪魔だから切ったの。トカゲは代官山のドレスコードで入れたの」

「彫松のお店?」アキラが言った。

「そう。ねえ、もしも三人で空を飛ぶことができたら、四日で世界を一周して、どこか南の島で暮らすの。素敵だと思わない?」ハルが瞼を閉じて、顔を上に向けて言った。陸橋の隙間から差し込むレモン色の太陽の光がハルの顔に斜めの線を入れる。

「南の島って?」リリーがサングラスを掛けてハルを見て言った。

「どこでもいいよ。でも初めはプーケットかな。そこでアキラは麻のシャツを着て、リリーは肩のでる黒い細身のワンピースで、ビビアンのだよ、ウエストがものすごく細いやつ。そしてハルは裸で暮らすの」

「裸?」リリーが言った。

「そう、裸だよ。なにも着ないの。リリーとアキラがハルをペットにしてるの。楽しいよきっと。必ず行こうね。アキラ、楽しいよね。きっと。ワンワンってハルが鳴くと、二人が散歩に連れて行ってくれるの、砂浜を歩くの。散歩の途中で二人は何度もキスをして、今日みたいにランチを食べて、疲れたらベッドに三人で寝るの、セックスも三人でするの。いい?」

空を見上げていたハルの顔がゆっくりと傾きリリーの肩にもたれて止まった。ハルはリリーの体から微かにただようクリスタルの香りの中で幸せを感じてそのまま瞼を閉じた。水色のワンピースを着た女の子を抱いた老人が三人の前を通りすぎて行く。女の子に向かってアキラが手を振ると、女の子はバイバイと恥ずかしそうに言って老人の肩に顔を埋めた。

「アキラ、ハルが変になっているよ。どうしたんだろう?」リリーが肩にもたれているハルの肩を抱きながら言った。

「ハル、LSDを飲んだ」

「えっ、アキラ、ハルに飲ませたの?」

「自分で持っていた。ペーパーに染込ませたやつ」

リリーはハルの頭を撫でながら、どうしてこんなところで飲んだりするのと言った。

「ハル、貴方はドラッグはやらないって言ってたじゃない?どうしたの?」

「リリコは今日はどうしたの?って、そればかりだね。クスリはやることにしたんだよ。ただそれだけ。体がね、フワフワで感覚がないよ。みんなオレンジに見える。空も橋も川もまぶしくて輝いて見えるよ。光が粒子が放射状に広がっていくのが分かる?アキラの顔が見えないよ。リリー聞こえる?花が呼吸している。もうすぐ雨がふるからって教えてくれたよ」ハルはゆっくりと目を開けた。

瞳孔が大きく開いている。

「大丈夫?」リリーはハルを抱きしめた。

「大丈夫だよ。自分の言っている言葉の意味が分かるから。ハルは今、物になりたいの。物になりなさいってリリーは言ってくれる?お願い」

ハルの体が小さく振るえ始めた。

「アキラ、家に戻ろう。このままだとまずいかも」リリーが言った。

その時、すいませぇぇぇぇぇぇぇんんんんんと叫びながら、釣りをしていた男の子が一人走って来た。

「少しだけ、パンを分けてくれませんか?」

ニューヨークヤンキースの帽子を被った男の子がピクニックシートに置いてあるランチを見て言った。アキラはここにある食べ物は全部君にあげるよと言った。

「そんなに、沢山はいらない」ヤンキースが言った。

アキラが持っていたパンを渡そうとしたときに、リリーに抱きしめられていたハルが、どうしてパンが欲しいのと聞いた。

「パンを川に流すと鯉が釣れるんだ」ヤンキースが得意げに言った。

「そう、すごいね」ハルは足元にあったアンチョビサラダ入りのパンを男の子に渡した。

ハルの手が震えている。

「お姉ちゃん、どうしたの?病気?」ハルの震える手を見ながらヤンキースが言った。

「パッパンでどうやって釣るの?」ハルが言った。

「パンを小さく千切って、いっぱい川に流して、その中の一つだけに針を入れて釣るんだよ」ヤンキースは見えない釣竿で魚を釣る真似をした。

「本当に、パッ、パンで釣れるの?」ハルが言った。

「本当だよ。おねえちゃん知らないの?カッパえびせんでも釣れるんだよ」

「そう」ハルは男の子に微笑んだ。

ヤンキースは嬉しそうにもらったパンを上に高くほうり投げると、アンチョビサラダをこぼさずに両手で受け止めた。

「つぅつっ、釣られた、魚、かっかっかわいそうじゃない?」ハルが言った。

「かわいそうじゃないよ。なんかおねえさんの顔が変だよ。話し方も変だし。どうして頭に髪の毛がないの?どうして絵が描いてあるの?」ヤンキースは手を伸ばしてハルの頭に触れようとした。アキラはヤンキースの腕を掴むと、このおねえさんは病気で家に帰らなくてはいけないんだと言った。

「どうどっどうして?さっかな、かっかっかっわいそうじゃないの?」

リリーがロックフォールチーズを手に取って、これもあげるからもう行きなさいとヤンキースに言った。

「それなに?パンじゃなきゃ釣れないよ」ヤンキースはそんなことも知らないのと言うように顔をしかめてジュンコに言った。

「魚は痛みを感じないんだって、神経がないからバカなんだって、理科の今林先生が教えてくれたよ。だから可愛そうじゃないよ。おねえちゃん、話し方が変だよ。なんでハゲなのか教えてよ」ヤンキースがニヤニヤ笑いながら言った。

「痛みを感じないとバカなの?」ハルはそう言うと立ち上がりヤンキースの目を見つめた。ハルの左目の下に蒼い血管が浮き出ている。

ヤンキースのニヤニヤ笑いがゆっくりと消えていった。

「だって、先生が言ってんだ。友達のイシちゃんもイノくんもあそこにいるリュウちゃんもバカって言ってたもん」

「痛みを感じないとバカなの?ハルは痛みを感じないよ。ハルはバカ?」

ヤンキースはハルの言葉に体を一瞬震わせててから、アキラとリリーの顔を見つめた。ハルはヤンキースの肩を両手で強く握った。

「おねえちゃん。痛いよ」ヤンキースの声が震えて今にも泣き出しそうな顔をしている。

「ハル、止めなさい」リリーがハルを手を押さえながら言った。

「ねえ、教えてよ。ハルは毎日オナニーしてハルはお尻に入れるの、痛くはなかったよ。気持ちがよくて、ハルはバカなの?ボーカルに、物になりなさいって言われて嬉しかったの、魚にだってなれるよ。心の深いところに沈んでいるものを私はもう一度、引き上げたの、もう我慢はしないの、ママもパパもどうでもいいの。本当は、どうでもよくないの。ねえ、教えてくれない?理科の先生なら分かるかな?スイートルームの人達は素直で正直でそして受け止めているの。受け止めるってどうすればいい?君は教えてくれる?ボトルを入れてもらったの、あの音と匂いがね私にいけないことをさせるの。私は、私、私、私私私は」ハルはヤンキースの体を揺さぶりながら、私は淫乱なんかじゃないと叫んだ。

ヤンキースの頭から、帽子が落ちてヤンキースは大声で泣き出した。

「痛いよぅうううううううっ、はなしてよぅうううっ」泣き声が陸橋に反射して辺りに響きわたる。釣りをしていたもう一人の男の子が、見ている。

「ハル、もう行こうぜ」アキラが言った。

ヤンキースの肩を抑えているハルの手をリリーが外して、ハルを抱きしめた。

その時、マルチーズを連れたペーズリー柄の服を着た小太りのおばさんが立ち止まった。

「ハル、帰るよ」リリーが言った。

「貴方達、何をしているのかしら?」小太りペーズリーが近づいてきた。ハルが振り向き、小太りを見た。その隙に、ヤンキースはハルの左肩を叩いて走り出した。

 陸橋の上を田園都市線が通り過ぎて行く。マルチーズが吠える声と、小太りが止めなさいとか警察を呼ぶとか叫んでいる声が電車の車輪とレールが軋む金属音音で掻き消される。釣りをしていたもう一人の男の子はいなくなっていた。ヤンキースは、お前たち狂っているバカと唾を飛ばして叫び、持っていたパンをハルに向かって投げつけた。パンはハルの顔に当たり、アンチョビが頬にへばり付き、ハルは小さな石が沢山ある川原に両手を付いてしゃがみこんだ。ハルの大きな瞳から涙がこぼれて石に小さな丸い染みを作った。アキラはハルの側に落ちていたパンを拾うと、甲高い声で吠えている犬に向かって投げつけた。

パンは犬には当たらず、側に落ちて潰れただけなのに、それでも小太りはギャァァァァァと悲鳴を上げると、私のマリーちゃんに何をするのと口を震わせ、潰れてレタスがはみ出たパンを食べているマリーちゃんを抱きかかえた。リリーは四つん這いになったままのハルの前でしゃがみこむと、顔に付いたアンチョビをハンカチで拭いた。

「ハル、帰ろう」

ハルの長いまつ毛の先から零れ落ちる涙を指先ですくいながらリリーが言った。ハルはリリーの肩に顔を埋めると、私を受け止めてくれる?と小さな声で言った。リリーはハルを抱きしめながら当たり前のことを聞かないでと言い、アキラに帰ろうと言った。

小太りデブ女は、マリーちゃんを抱きかかえながら、小声で、私のマリーちゃんにパンをぶつけたのは許さない警察を呼ぶわ、警察を呼ぶわと繰り返していて、アキラは女に近づくと、マリーちゃんを抱いているでかい胸の谷間に、持っていたシャブリを押し込んだ。女は、ひゃぁぁぁぁっと小さな声を上げて、抱いていたマリーちゃんとシャブリを落とし、シャブリがマリーちゃんの背中に当たって、ごんと、鈍い音をたてて跳ね返り、石に当たって割れ、ワインとガラスが飛び散って、女が履いていた金色の糸で像が刺繍してあるスエードのパンプスを汚した。マリーちゃんは川向こうに向かって、猛スピードで走り、小太り女はマリーちゃんの後を追って走り、石に躓き転んで額から血を流して、警察を呼ぶから待っていなさいと叫びながら消えて行った。

 二子橋を渡り始めたとき、雨が降り出した。アキラは、リリーがハルの肩を抱きながら歩く二人の後姿を見つめながら、少し離れて歩いていた。

空を見上げるといつの間にか空は灰色で雲の隙間からは光の柱が何本も差し込み、雲が移動するのにあわせて、見え隠れしている。もうすぐ雨が降ると言っていたハルの言葉を思い出しながら、アキラはハルに貰ったペーパーアシッドを口に入れた。舌が痺れながら少しずつ感覚を麻痺させていき、心臓がスピードを上げて血液を送り出していく。アキラは、橋の手摺りから身を乗り出して下を覗き込んだ。小さな波紋が幾つも生まれては消える川の中をゆっくりと泳ぐ二匹の鯉が見えた。鯉はぴったりと寄り添い、まるでダンスでも踊っているかのように大きなカーブを描きながら、流れに逆らって泳いでいた。

bottom of page