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​長編 エナメルの夜を泳ぐ魚達

#-12 もう一人の自分

 アキラは、テーブルに座り椅子の上に足を乗せて、シャワーを浴びたばかりのリリーの背中を見ていた。白い肌から蒸発していく水滴が微かにミントの香りを放っている。髪の先から落ちた雫が背骨を伝いお尻の割れ目に流れていった。

「雨、土砂降りだね」リリーはキッチンの窓を開け、ゆっくりと流れていく灰色の雲を見て言った。湿気を含んだ部屋の空気を土砂降りの雨が冷やして、リリーは目を細めた。

「ハルは?」リリーが濡れている長い髪をひねってまとめ、バレットで後ろに止めながら聞いた。

「寝ているよ」

「私も少し寝るね」

リリーは冷蔵庫からエビアンを取り出し、それを持ってベッドルームへ行った。

ハルは多摩川からマンションへ戻るまで、ずっと泣いていた。アキラは、涙で流れ落ちるハルの青いアイシャドーを見て、ハルが本当に青い涙を流しているように見えた。土砂降りの雨の中、リリーは泣いているハルの肩を抱きながら何も言わず歩いていた。リリーの頬を黒い涙が流れて、雨でずぶ濡れになったワンピースが体に張り付き、まるで二人は裸で歩いているようで、アキラはそんな二人の後ろ姿を見て、とても古い美術館でその建物よりも古い絵を見ているような、そんな気がした。ハルは部屋に戻るとすぐに食べた物を吐き出し、吐き出したフランスパンを見つめながら、誰に言うともなく、素直に生きることに決めたんだよと呟いていた。リリーはそのときも何も言わずに、ハルの肩に手を置いていた。

アキラはキッチンの窓を閉めると、リビングのソファーで眠っているハルの髪のない頭に彫られた青いトカゲを見つめ、そっと触れてみた。トカゲは口から細い舌を出し、体をくねらせて、生きているかのように頭の上を這っている。アキラはハルの濡れているサテンの赤いワンピースを脱がせようとして、そっと肩に触れた。背中のジッパーを下ろして袖から腕を抜くと左肩にトカゲが這っていた。頭のトカゲよりも一センチほど大きなトカゲには尻尾が二本あった。アキラがトカゲを見つめていると、ハルが静かに瞼を開けアキラに微笑んだ。

「このままだと風邪ひくよ」アキラが小声で言った。

ハルは何も言わずにアキラを見つめている。アキラは静かにワンピースを脱がせた。

「下着は?」

ハルは微笑むと腰を浮かせた。

ワイン色のブラジャーとパンティーを脱がせて、水色のタオルケットを掛けながら、アキラは腕のトカゲには尻尾が二本あるねと、言った。ハルは頷くと、小声で音楽が聞きたいのと言った。

「何が聞きたい?」

「BEN HARPER」

アキラがFIGHT FOR YOUR MINDをかけると、ハルは瞼を閉じた。部屋にワイゼンボーンのスライドギターが流れる。

「肩のトカゲはなぜ尻尾が二つあるか知りたい?」ハルが目を閉じたまま言った。

「うん」

「ねえ、心の中っていったいどうなっているんだろうね。例えば、心の中に詰まっている考えとか、思いとか、愛とか、憎しみなんかが目に見えるもので、それをテーブルの上に一つ一つ並べることができたらいいと思わない?そしてその中から自分の好きな心だけを選んで、嫌いな心は捨ててしまうの、ポイッって」

「心の中?」アキラはハルが寝ているソファーの肘掛に座った。

「ロンドンから来たバンドのボーカルが言っていたの。自分は何が必要で、必要じゃないかを理解していて、そして、必要とか必要じゃないとかそんなことはなんかまったく気にもせずに全てを受け入れて生きているって、そして、私に、心を開放して深いところに沈んでいる何かを吐き出したことはあるかって聞くの。人は皆、他人には言えないことを心に閉まっているって、心はそんなことにうんざりしているって、もと素直に生きてほしいって」

「心がうんざり」

「アキラは何か心に閉まっている?」

アキラは、テーブルの上にあるリリーのクールに火を点けてメンソールの煙を深く吸い込んだ。

「多分、閉まってる。でも今は思いつかないな」アキラは、ハルの閉じた瞼から伸びる長いまつ毛を見ていた。

「私は、沢山ある」ハルはアキラの膝の上に細くて長い足を乗せた。ワインレッドに塗られた足の爪が光っていた。

「高校生のときにね、付き合っていた男の子が本をプレゼントしてくれたことがあって、それは、ベトナム戦争に行ったCNNのカメラマンが自分の体験を書いた本で」ハルは話を途中で止めて目を開けると、アキラの顔を見つめて微笑んだ。

「本の内容を聞くのと、私とセックスをするのと、どっちがいい?」ハルは体に掛けていたタオルを少しだけずらして左胸の乳首を見せた。

「本にしとくよ。今、ここでハルとセックスをするのには、このソファーは狭すぎるだろう?」アキラはそう言ってハルの胸にタオルを掛けた。

「アキラ、好きだな。そうゆうところが好きだよ。リリコのことが嫌いになったら、今度はハルをお嫁さんにしてね」

アキラは、ハルの唇にそっとキスをして、話は?と言った。

 「アメリカ陸軍第十六部隊ブラボーチームの歩兵の中にね、ロックミュージシャンがいて、CNNのカメラマンはそいつを取材に行く途中のジャングルで仲間のクルーとはぐれてしまうの。カメラマンは北ベトナム軍のゲリラ兵士に捕まって捕虜になってしまうんだけど、俺は兵士じゃない民間人だってゲリラに言っても無駄なの。だって、ジャングルの基地には子供のゲリラしかいなくて、誰も英語が分からなくて、拷問とかね、いろいろと残酷なことをされてしまうの。どう?面白そう?」

アキラは頷いて、吸っていたタバコを消すとまた、新しいタバコに火を点けた。

「カメラマンが爪を剥がされているときとか、歯をペンチで抜かれているときとか、足の指をアーミーナイフで切り落とされているときとか、口の中にうんこを詰め込まれているときとか、痛みを超えた痛みの中で、カメラマンはもう、生きることを止めようと思うの。そうしたら、今まで生きる為に自分を支えていた、家族、恋人、仕事、宗教、名声、平和、生まれてきた意味、自分の家の庭に咲いているライラックの紫色の花、ボブデュランのLP、ユーゴやヘミングウェイの小説、机の二段目の引き出しに隠しておいたポルノ雑誌、壁に掛けてあるママの写真、そんなことはもうどうでもよくなって、はやく殺してくれと祈るのだけれど、カメラマンを初めから人間と思っていない子供ゲリラはなかなか殺してはくれなくて、心の中で一万回殺してくれってお祈りしたときに、自分とは違う別の自分が現れたんだって」

ハルはそこまで話すと、アキラの吸っていたタバコを取って、一度深くメンソールを深く吸い込み、アキラに返した。

「本当におもしろい?もっと聞きたい?」

アキラは膝の上に乗っているハルの足の指に触れながら頷いた。部屋に流れている曲がPWER OF THE GOSPELにかわり、ヴァイオリンの音色がやさしく響く。

「もう一人の自分はね、映画でも見ているかのように、左足をソ連製のチエーンソーで切断されて歯のないうんこまみれのカメラマンを冷静に見ていて、そして、片足じゃもう息子のエディーとサッカーができないとか、恋人コートニーとローラースケートができないとか、口の中に詰められているうんこはハノイのクリスマスロードという名前の売春宿で働く十二歳のマリアのうんこでマリアは毎日アメリカ人の精子をアナルに入れているからこれでプラスマイナスゼロだぜとか、LLサイズのポップコーンを食べながらカメラマンに教えてくれるの。カメラマンは、アフロヘアーで白いにきび顔にレイバンクラッシックの黒いサングラスを掛けて、チョコがたっぷりとかかったドーナッツを口一杯に詰め込んでキングサイズのペプシを飲んでいる自分に、助けてと頼んでみるんだけど、アフロはコメディ映画でも見ているかのようにカメラマンに指を指しながら笑っているだけで、ぜんぜん助けてはくれなくて、カメラマンは突然現れたもう一人の自分が本当は神様なんじゃないかと思っていたけどそうではなくて、やっぱり悪魔だって思って、死を祈り続けるの。十二歳の左腕のないゲリラ兵士に向かって自分の切断された左足と一緒にバケツに入っているソ連製のチェーンソーを指さして、僕の首を切り落としてくれとジェスチャーしていたとき、初めは笑っていたアフロが、ゲリラがチェンーソーのエンジンを掛けた瞬間に、鼻で笑って、黄色い唾をカメラマンに吐き飛ばしたの。ねえ、アキラ聞いてる?」ハルがアキラの顔を見上げながら言った。アキラは瞼を閉じて、カメラマンとアフロとゲリラ兵を想像しながら聞いているよと言った。

「ポップコーンとペプシ臭い唾がカメラマンの額にべッチャッと音をたてたとき、カメラマンに猛烈な怒りがこみ上げてきて、アフロに向かって、お前の前では絶対に死なねえぞって叫んで、殺してくれって頼んだゲリラにフェラチオをして許してもらって、カメラマンはペンチで歯を全部抜かれていたからフェラチオがとても上手で気持ちよくて、カメラマンの前には八十五人のチルドレンゲリラの列ができて、ゲリラはカメラマンの口の中にザーメンを出した後、両手を合わせて合掌して、カメラマンは始めて人間らしい扱いを受けたの。でも、チルドレンゲリラは、カメラマンを人間以上の神の出現だと思っていて、八十三人目の両目がナパームで潰れた十八歳の通信兵の腐りかけたペニスをしゃぶっているときに、第十六部隊ブラボーチームのロックミュージシャンがM十六を乱射しながら現れて、カメラマンは救出されたの。ロックミュージシャンは十九歳のオカマのゲリラの頭を吹き飛ばしながらカメラマンに向かって、親指を立てて君の為に曲を書くぜって言って、カメラマンは飛び散ったオカマの脳みそを顔に浴びながら気絶してしまったの」

ハルは一度大きくため息をつくとソファーから立ち上がり、疲れたと言った。

「話すの疲れたよ。喉か痛くなったからバニラアイス、食べていい?」ハルはそう言うと裸のままキッチンへ行った。アキラは薄暗くなった部屋でソファーに座り、心がうんざりしていると言ってみた。バニラアイスを持って戻ってきたハルは、アキラの隣に座り、アイスの蓋を取って蓋の裏についているアイスを舐めて美味しいと言った。

「今、話した本の内容が私はとても好きなんだ。何度も繰り返し読んだんだよ。どこが好きなのって聞かれると困るけど、あのね、読んでいるときに、とても残酷で悲惨なことが書いてあるのにワクワクしてくるの。この本に書かれている登場人物のカメラマンやアフロやチルドレンゲリラやロックミュージシャンはそれぞればらばらの人間じゃなくて、本当は全部を会わせ持っている一人の人間じゃないかって思えてくるの」

「物語の続きと、トカゲの尻尾の秘密は?」

アキラが言った。

「尻尾がなぜ二本あるかは、もう分かったでしょう?そして続きは後で、いい?今日は沢山話して疲れたの。リリーは何処へ行ったの?」ハルはバニラの容器に書かれている成分表を見ながら言った。

「寝ているよ」アキラはハルの小さな胸の谷間にあるほくろを見ながら言った。

「それからね、読んでいるときに感じる静けさが好きなんだ」ハルはバニラを半分食べると、残りをアキラの膝の上に置いて、リリーが寝ているベッドルームへ行った。

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