photographer
Karumi(カルミ)
長編 エナメルの夜を泳ぐ魚達
#-14 メリーゴーランドに乗って
赤色のプラスチックのスプーンからバニラアイスをちょっとずつこぼして、リリーはデパートのレストランで、透明なビニールのテーブルクロスにクリーム色のハート型の線を引いていた。これで誰も私を忘れないよと、リリーは母に言った。母はレストランの窓から見える港を見つめたまま黙って頷いた。
「さぁ、リリコ、遊園地に行きましょう」母が言った。リリーの手を引く母の手はとても冷たくて、赤いエナメルの爪がリリーの皮膚に食い込み、リリーは痛みをこらえながら母の顔を見上げた。母は唇を噛み締めながら真直ぐに前を見つめて歩いている。噛み締めている唇にはうっすらと血が滲んでいて、リリーが血と口を開きかけたときに、ビィイイイイイイイイイイイイイーッと鈍く重いベルの音が鳴り、エレベーターのドアがゆっくりと開いた。
エレベーターの中は眩しいほどの白い蛍光灯の光で溢れ、赤い壁には青色と黄色の風船が風に吹かれて揺れている大きな絵が書かれていた。リリーはエレベータに乗り込むと母にボタンを押したいと言った。母はリリーを抱き上げ、ボタンの前で、ほらっ、と言った。酸化してところどころミドリ色のまだら模様になっている真鍮のプレート上で二つのプラスチックのボタンがオレンジ色に光っている。ボタンの真ん中にはそれぞれ、レストラン、遊園地と赤い文字が彫られていた。
リリーがどれを押していいのか迷っていると、母は耳元で遊園地でしょうと呟いた。母の呟いた口から甘い匂いがしてジュンコはバニラアイスを思い出して食べたくなったけど、今、食べたいと母に言ったらきっと怒られてしまうだろうなと、思いながらボタンを押した。カチッと音がすると、ボタンは真鍮のプレートから消えてなくなり、ボタンがあった場所には丸い穴が開いているだけで、穴の中から赤黒い液体がゆっくりと溢れだして、プクプクと泡を噴きながら流れ出していく。ブゥウウウウウウウウウウウンと鈍く重い音が室内に響き一瞬、蛍光灯が消えてエレベーターが動き出す。ボタンから流れ出した液体は不規則な形を作りながら広がって行き、サンダルを履いている母の足を汚した。
「お母さん、ほら見て、血が流れているの」母は抱き上げているリリーを、ゆっくりと床に降ろしていく。
「いや、ほら、床が汚れているよ。降ろさないで、お母さんの足が血の色になってる」
エレベーターの天井と壁の隙間からも赤黒液体が流れ出し、蛍光灯の光が赤く染まっていく。壁に書かれた風船が呼吸をするように膨らみだす。
「この靴は、お父さんが買ってくれた大切な靴で宝ものだよ」
クリーム色の革靴を履いた小さな足をバタバタと動かしたリリーの靴が床に着くのと同時に、ビィイイイイイイイイイイイッッとブザーが鳴りドアが開いた。冷たい風がリリーの髪を揺らし、微かに海の香りと波の音が聞こえてきた。
「行きましょう」
母はそう言ってリリーの手を引いて歩き出した。
「靴が汚れてしまったよ」リリーは母にそう言って足元を見ると、靴はクリーム色の綺麗なままで、母の足も汚れてはいなくて、後ろを振り返ると、エレベーターはなくなっていて変わりに石畳の長い階段が続き、青い空には青と黄色の風船が風に吹かれながら揺れていた。ホエールランドと書かれた薄汚れたゲートを通り抜けると、いつの間にかリリーは一人で歩きながら、はぐれた母を捜していた。
「お母さん、博物館には片足のロバはいなかったよ。ねえ、お母さん何処に行ってしまったの」
リリーが母の名前を呼び続けていると、鯨の形をした噴水の前で、母がリリーの知らない男の人とホットドッグを食べていた。母はリリーに手を振り、隣の男が手招きをしている。リリーは自分の履いているクリーム色の革靴を見つめながら、そっちには行きたくないのと言った。母は困った顔をしながら、リリーに向かって歩き出し、その後に続いて男も歩きだした。母の右手が、リリーの肩を掴むと同時に、リリーは母と、母が好きだったメリーゴーランドに乗っていた。リリーはピンクのロバに乗り、母は青色のユニコーンに乗った。メリーゴーランドはオルガンが奏でるメロディーを響かせながらゆっくりと回転し始め、リリーは上下に動くロバに掴まりながら、母に向かって楽しいねと言った。母はジュンコに向かって手を振ると、口を半開きにしたままユニコーンの角を掴み腰を動かし始めた。
「お母さん、遊んでるの?」リリーが言った。
母は口から白いよだれを流し、胸を揉み始めた。リリーは握っていたポールから手を離して母に触れようと手を伸ばすと、母は怖い顔でリリーを見つめ、早く寝なさいと叱った。リリーはその声に驚いて伸ばした腕を引っ込めると、お父さんが帰ってくるまで一緒に寝て欲しいのと母に言った。
「一人で寝るのはさびしいよ」リリーが言った。
母の乗っていたユニコーンがブルっと身震いをすると、鯨の噴水前に母と一緒にいた男に変わった。母は仰向けになっている男の上で腰を振りながら、聞いたことのない声を出している。
「やめて」リリーが呟く。母の口からよだれが流れる。男が、母の胸をもんでいた手を伸ばしながら、お前もこっちへおいでと言った。男の手が、リリーの頬を撫でようとしたとき、リリーはこれが夢でこの後、私は足元に落ちていたはさみを男の手のひらに衝き刺すんだと、思った。
大きく鼓動を打つ心臓の音を聞きながら、リリーは天井を見つめていた。寝返りをうち横を向くと、白い肌にトカゲのtattoが見えた。リリーはトカゲをぼんやりと見つめながら夢で見た赤いエレベーターと母が男の上で腰を振っているのを思い出して、深くため息をついた。床に置いていたクールに手を伸ばし火を点け、メンソールの煙を深く吸い込むと、少し落ち着いた気がした。
「どうしたの?」ハルが言った。
「ごめん、起こした?」リリーはタバコを消した。
「大きな声で寝言を言っていたよ。行きたくないとか、やめてとか」ハルは横を向いてリリーの顔を見つめた。
「汗、すごいよ。熱い?窓を開けようか?」ハルはリリーの額の汗を指ですくった。
「大丈夫だよ。自分で開けるから」
リリーはベッドから起き上がると、ベランダの窓を開けた。入り込む風が微かにレースのカーテンを揺らす。ハルは月の明かりに照らされて浮かびあがるリリーの体のラインを見て、綺麗だなと思った。私が、知っているモデルのなかで、リリーが一番美しいラインをもっていると思った。リリーは多摩川を見つめながら、夜の空気を吸い込んだ。
「ねえ、どんな夢を見ていたの?」ハルは指で筒の形を作り、それを左の目に当ててリリーの背中を覗きながら言った。リリーはなにも答えずに多摩川を見つめている。川に嘴の長い白い鳥が舞い降りて何かを銜えると直ぐに飛び立って行った。
「言いたくないのなら言わなくてもいいよ」ハルが言った。
「アキラは?」リリーが言った。
「リビングのソファーで、寝てると思うよ。ねえ、リリコの心が悲鳴をあげているのかもしれないよ」ハルは指でピストルの形を作るとリリーの心に向かって撃つ真似をした。
「心が悲鳴?」
ハルは、眉をしかめて自分を見つめているリリーの体を見て、その美しいラインと心に触れることができるアキラをうらやましく思った。
「でも、大丈夫だよ。リリコには受け止めてくれる人がいるから」ハルが言った。