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​長編 エナメルの夜を泳ぐ魚達

#-17 贈り物

[NEVER MIND] ドクター F・モリスン著作

私は一体どれほどの時間を眠っていたのだろう。意識を取り戻した日、病室の窓から見える緑色の葉が生い茂る広葉樹の森を見ているとき、私は死に向かって一歩階段を上り、絶望という名のバスに乗り込む自分の姿を心の中に見て、叫び声を上げた。ブロンドの髪をポニーテールにした緑色の瞳を持つ白い清潔な白衣を着た看護婦に抱きしめられていなかったら、きっと私は気が狂っていただろう。顔を埋めた看護婦の白衣から微かに漂うエタノールと洗剤の匂いが破裂寸前の私の心臓と血管と脳細胞を落ち着かせてくれた。点滴を交換しましょうと言った看護婦に私は微笑みかけてみようとしたが、私の頬は引きつったまま動かなかった。妻のレベッカと息子のエディの居場所を看護婦に聞きたかったけど思うように声が出なくて、看護婦は今からドクターを呼んできますと言って、病室を出て行った。体を動かそうとするのだけれど、体には力が入らず、意識が体を離れて空中に浮いている様な感覚がした。

 窓から入り込む暖かい風に揺れるレースのカーテンを見ているとき、目の前で頭を吹き飛ばされたオカマのチルドレンベトナム兵の痙攣して飛び跳ねている体と、親指を立てて私の為に曲を書くと言いながらM16を乱射していたロックミュージシャンとアフロヘアーでサングラスを掛けて死にかけている私に指を指しながら笑っていたもう一人の自分を思い出した。私は自分の心が震え始めると同時に体に感覚が戻り、私が今居る場所はベトナムのジャングルではなく、アメリカ合衆国のカリフォルニアなんだと実感した。

 病室のドアが開いたような気がして、瞳を動かして見ると、黒縁めがねを掛け首から聴診器をぶら下げたクールカットの若いドクターが、私に微笑みかけながら何も心配することはないといったような落ち着いた声で、ここに来てから二十日も眠っていましたよと言った。奥さんと息子さんは早く貴方が元気になるのを心待ちにしていますよと、後から入って来たポニーテールの看護婦が言い、ドクターに注射器を渡した。ドクターは私の体に何本も差し込まれている透明なチューブに注射器の針を差し込むと、ゆっくりとポンプを押して黄色い液体を注入した。注射器から押し出された液体が私の血液と混じりあい、感覚の無い体に流れ込むと意識が薄れ始め、私はポニーテールが言った言葉を心の中で何度も繰り返しながら、瞼を閉じた。

 助け出されてから六十八日目の朝、妻のレベッカがクールカットのドクターと一緒に私の病室に来た。私は車椅子に座り、病室の窓から見える森と、雲ひとない真っ青な空を見ていた。ドアが開くと同時に、モリスンと私の名前を呼ぶ歓喜に満ちたレベッカの声が聞こえ、私はゆっくりと妻の方へ車椅子を回転させた。右目が潰れ鼻が曲がり頬に小さな穴があき歯の無い顔と、喉とわき腹に透明な太いゴム管を入れ、片足が無く全身を包帯でぐるぐる巻きにされ、胸にバックスバニーの刺繍がしてあるオレンジ色のガウン〔ポニーテールが車椅子に乗れたお祝いにプレゼントしてくれた〕を着て車椅子に座る私を見て、妻は悲鳴を上げて後ろに立っていたドクターに倒れて気を失った。ドクターは倒れた妻を抱きかかえながら、私に笑いかけて何も心配することはありませんと言った。この病院は全て一流のドクターしかいません。その中でも美容整形の技術は最高峰ですと言った。

 六回目の手術の朝、天使が聖母マリアに抱かれている絵の描かれたレモン色の便箋を受け取った。差出人はレベッカだった。

「親愛なるモリスンへ

ベトナムで戦死をしたと電報を受け取ったとき、私とエディーはどんなに悲しんだでしょう。あの日のことを思い出す度に目の前が真っ暗になり涙が流れてきます。電報を受け取った日のことは生涯忘れることはないでしょう。なぜなら、その日はエディーの五歳の誕生日だったからです。私がキッチンでパーティー用のケーキを焼いているときに電報が届き、初め私はなにかの間違いではないかと軍服をきた青年に聞きました。だって貴方はベトナムへ行く朝に言ったでしょう?「兵士じゃない僕がこの馬鹿げた戦争で死ぬことはない」って、電報を持つ私の手は震え文字が読めないほど涙が溢れて、泣き崩れている私にプレゼントの絵本を読んでいたエディーがどうしたの?ママと聞いてきても私は貴方が死んだなんて言えませんでした。死の報せから一年間、私は貴方のことを忘れようと努力しました。なぜなら、貴方のことを思い出す度に苦しくて生きていくことができなくなるからです。自殺も考えました。そんなとき何も知らずに貴方の帰りを待っているかわいそうなエディーを見て、これからはこの子の為だけに私は生きていこうと誓ったのです。エディーに貴方がもう戻っては来ないと教え、貴方の思い出が残る家を売り新しい生活を始めました。そして、私の苦しみを癒してくれる人にも出会いました。〔こんなことを書くなんて、今病室で苦しんでいる貴方には辛いことかもしれませんが、私も貴方と同じぐらいに辛いことを分かってほしいの〕その人とエディーと三人で新しい生活を始めました。〔今では、エディーはその人のことをパパと呼んでいます〕一年間という貴方の居なかった時間、私はどれほど辛かったか分かってほしいの。貴方が生きていると聞いたときは、どんなにか神に感謝したことでしょう。今も貴方のことは愛しています。これからの人生が貴方にとって素敵な人生でありますように。

貴方が生きていることをエディーは知りません。また、教えるつもりもありません。

愛をこめて レベッカ

 この手紙を残して、レベッカは二度と私の病室へ来ることはなかった。

十二回目の手術が終わり、入院してから二百四十五日目の朝、私がリハビリを受けているときに、ベトナムで私を助けてくれたロックミュージシャンが大勢の報道と新聞記者を連れて見舞いにやって来た。私とミュージシャンが握手をした写真と記事がニューヨークタイムズ誌に載り、ローリングストーンズ誌の表紙を飾った。彼が私の為に書いた曲が全米ビルボードチャートで一位になり、グラミーショー四部門を独占して、ロックミュージシャンはロックスターになった。ロックスターはテレビ番組でベトナムでの活躍と私を救出したときの出来事を何度も話し、世間が私に注目し始めた頃、私が働いていたCNNがベトナムでの体験を番組にしないかと言ってきた。私がそれを断ると、CNNは勝手に番組を制作して放送した。番組が放送された翌日、松葉杖を付きながら紫色のライラックの花が咲く病院の中庭を散歩している私に、背の高い痩せた茶色のコート着た黒人が、コーヒーを差し出した。黒人はハリウッドから来たと言い、私の映画を制作したいと握手を求めた。私はデニスホッパーを主役にするという約束で契約書にサインをして、握手をした。茶色のコートの男は整形手術で治した私の整った顔とピースマークのステッカーを貼った義足を付けた左足をゆっくりと舐めるように見つめながら、これで貴方は名声とお金を手に入れたと言った。死ぬまで食事の心配をすることはないでしょうと言い残して、帰って行った。

 半年後、映画は全世界で公開され、私の銀行口座には人生を百回やり直しても使いきれないほどの大金が振り込まれた。映画の主役はデニスホッパーではなく、私を助け出したロックスターだった。でもそんなことは、もうどうでもよかった。ベトナムで私に降りかかった災難〔今となっては、災難といっていいものか曖昧になっている。なぜなら、ベトナムでの体験によって私は新しい生き方を見つけることができたからだ。失ったものは大きかったが、それにもまして手に入れた物のほうが多いような気がする〕によって私は自分の中に現れたもう一人の私に出会うという不思議な体験をした。自分の中の自分とは、漠然としていて的を得ていない表現だが、うまく言い表すことができない。頭の中、胸の中、手、足、顔、ペニス、心、宇宙、どれも本当のようでもあり間違っているようでもある。とにかく、自分の中にもう一人の私が現れたという表現が正しいと思う。私がチルドレンベトナム兵に向かって殺してくれと言ったとき、私に唾を吐きかけ指を指して笑っていたもう一人の私とは、私がこの世に生まれる前の私でもあり、生まれてからの私でもあり、十代、二十代、三十代の私でもあり神のような存在でもあるような気がする。ベトナムでの出来事から八年たった今、私は映画で手に入れたお金を使って、ベトナム戦争で親を亡くした子供たちの為のモリスン募金財団を設立した。そして、ライフワークとして、カルフォルニアのベニスビーチの側にあるラジオ局を買い取り自分の番組を毎日三時間放送している。この「モリスンのお悩み相談室」には沢山のリスナーが電話を掛けてくる。自殺願望者、神秘主義、オカルト、秘密結社、精神科医、政治家、教育者、エコノミスト、菜食主義、宗教家、私のファン〔こいつらの殆どは頭がいかれている〕など、私は狭いブースの中で、エスプレッソを飲みながら電話の受話器を取りマイクに向かって話しかける。心に病を抱えている人達を救うことができるようにと。毎日の放送で一度は必ずリスナーから受ける質問がある。〔始めた頃は悩みよりも質問を受ける方が多かった〕

「おはよう、ドクター モリスン。こうして貴方が私と電話で話しているときでも、もう一人自分は話しかけてくるのかしら?」

この質問を受ける度、私の心の中にチルドレンベトナム兵のペニスをフェラチオしていたときの映像が浮かび、私は、「もう一人の自分は私に話しかける必要がなくなったので、もう二度と現れはしないだろう」と、答えている。

 アキラはべランダで白いプラスチックの椅子に座り、ガラスのパイプにマリファナを詰めて火を点けると、ハルから送られてきた赤いハードカバーの本を閉じて膝の上に置いた。本の間に挟んであった、真っ青な空の下で白い砂浜に紺色のワンピースを着た小さな女の子が茶色のテディーベアを抱きながらエメラルド色の浜辺にたたずむポストカードを手に取り、裏側に書かれたメッセージを何度も繰り返し読んで微笑んだ。

 シャワーを浴びたばかりのリリーが裸のままアキラの隣に座った。リリーは手に持っていたバニラアイスをアキラに渡し、アキラがくわえていたパイプを取ると、煙を肺の中に入れた。アキラはバニラアイスの蓋の裏側についているクリーム色の塊を舌ですくい取り、口の中に広がる冷たさと甘い香りを感じながら、ゆっくりとリリーに顔を近づけ、キスをした。

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